書きたかったテーマにやっと手をつけることができた。
喜田貞吉の「被差別burakuとは何か」、「先住民と差別」から抜き出してみた。
(一部表記は変えている。)
喜田氏は1871年生まれなので古い資料にはなるが、それだけにburakuの複雑な成り行きがわかる。
(喜田氏の,日本は天孫民族のヤマトが中心であるとの思想とは相容れなかった。)
以下一部転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので賤ninとして疎外されてるものは、土jinや帰化jinの子孫ではなかろうかと申します。ちょっとそうも考えやすいことではありますが、我が日本民族においては、決してそんな事実はありません。
な るほど戦争に負けた先住民や、運の悪い帰化jinがド×イになったり、人の嫌がる仕事をさせられたりしたものはありましょう。しかし、同じ日本民族でも、 運が悪ければ同じ境遇に落ちます。その代りに都合よくいったものは、先住do着人の子孫であろうが、チョウセン人、シナ人の後裔であろうが、立派に貴族に なったものも沢山あり、また一般日本民族中に混入したものは、無論大多数を占めているのであります。
それと同時に、土jinなり、その他のセン×ンなりも、解放されさえすればいつでも良民になりうるものでありました。
したがって我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、
少なくとも昔はありませんでした。
(hourou注:大筋では彼は差別は職業によって確定したと考えていた)
●etaとは屠シャと皮細工人とkawara者の3つが合わさったもの。
屠シャのことを古には餌toriといい、etaという名はetoriの転訛という。
天武天皇以来牛馬を殺すことが禁じられたため、それを処分するものの必要があった。
彼らは古代ではそれほど差別されていなかったようだが
仏教が入ってきてから忌み嫌われるようになった。
●皮細工人はなめし皮に技術に慣れた高麗仁や百済人がなった。
徳川時代に、一切の賤ninをeta、非ninに分け、kawara者も皮田と呼ばれたものも皮革を扱うものはみなetaになった。
●江戸浅草の弾左衛門は関東八州のetaを統率していた。支配下には猿mawaし、田楽、遊じょ屋、湯屋、陰陽師、神子、筆結、墨師、弓矢師、襖師、表具師、焼き物師、傘蓑作り、石切り屋、左官、蝋燭屋がいた。
京都では下村庄助が多くの皮田buraku民を率いて、二条城の掃除をした。後、京都のburaku民は牢屋番、死刑囚の処置などをした。
・675年 天武天皇詔 牛馬犬猿鶏の食を禁止
・大化の改新(孝徳天皇代)男女了良賤の法
・切支たんは迫害を避けるためeta部落に隠れた。当時、治外法権的であったため犯罪者も隠れたという。
・明治4年eta hinin解放
●大きく分けると
| eta | 非nin |
| 皮を扱い肉を食す人 | 農民以外のeta以外の人 |
少ない
特に徳川中期以降から差別が強くなり、被差××として残される
| 多い
非ninよりetaのが立場が上だった時もあったが次第に逆転していった 時代と共に良民として解放される
|
屠×者・なめし加工者・産所などの汚物処理。 時代によって内容が変わった | 小屋mono・遊芸者(手猿楽、辻能、漫才、)、河原mono (歌舞伎役者、俳優など)・茶筅・ハチya
|
●その他の分類
| 家人 | 主家と別に一家をなす人(後に武士として台頭してくる・・源頼信、平将門など) | 文武天皇代 |
| 奴hi | 主人の家に寄食する人 | 〃 |
| 陵 戸 | 墓守 | 〃 |
| 雑 戸 | 玉造部・弓削部・鎧作・楽戸・船戸・酒戸・薬戸・鷹戸・馬飼、犬飼など(部は職業の団体を表わす) (聖武天皇詔により解放) | 聖武天皇以前 |
| ama部 | 田地をもらわない人、農民以外 狩人・漁師・三家(岩穴などに住み竹細工品を売る)・野宿・ほかいびと | 奈良平安朝 |
| 産所 | お産をするところ(血の穢れを忌む) | 古代 |
| syuku | 陵の番人という説があるが、後に遊芸、掃除人足 | |
etori esasi | 死んだ牛馬を扱う人、皮革工業 | 持統天皇代 |
kawara者
| 京都鴨川の河原にいた浮浪民、皮革を晒す人が元で、後に遊芸者 | |
傀儡si クグthu | 人形使い・遊女・狩猟民・剣舞、神楽、手品などの技芸者 (日本先住民族、国津神系民族) | 平安朝代 |
| 小法師 | 御所の掃除人、藁箒、草履を献上する | |
| 青ya | 藍染屋、紺屋(染料に動物性のものを用いるため) 青ya大工は罪人処刑の用材を調達した | |
| キヨメ | 死体を処理する | |
●etaの語源について
etaはオロッコ族の称か
愛ぬが石器時代には中国、四国、九州にいた。
後、北に移動、またはsankaになって隠れた。
北海道の土着の人々の中に自分らの族をettaを呼んでいたものがあるという。
金田一文学士に問い合わせてetta、もしくはイェッタ、ウェッタと呼んでいるとの回答を得た。
(hourou注:
地球の謎解きによればエタはイシカミと人間の橋渡しをする人という事を表わす良い言葉)
●墨は獣皮から作ったニカワを使って作られているがこれは禁忌から除外されていたことからも
仏教家の偏見からetaが賤しいものとして強調されるようになった。
徳川幕府が切si丹宗を禁ずる方便として、人民をことごとく仏教に帰依せしめ、
必ず何らかの寺院の檀徒となるを要するに至って、彼らを忌むの念は自ずから一般に普及するに至った。
●人のいやがる仕事をする彼らはある意味尊重され、時代によっては中には裕福なものもいたが、徳川時代に武具の需要が減り、彼らの職が減ったにもかかわらず人口が増えた結果、彼らは窮して堕落し、問題も多くなり、悪循環が生まれた。
●ケガレとは神道の思想であるが、食肉屠殺をケガレというようになったのは仏教徒が神道のケガレ思想を利用したからである。
etaをキタナイとしたのは殊に真言宗で、etaを一般ににイヤシイと視るようになったのは徳川時代である。
etaを保護したのは浄土真宗、浄土宗、日蓮宗。
● 山陰地方にはかつてハチまたはハチyaと呼ばれた階級があった。山陽地方ではチャセンといい、北陸地方ではト ウ ナ イといい、東海地方ではサ サ ラといい、近畿地方ではオ ン ボ(御坊)・syuku(夙または宿)などと呼ばれたものも、もとは同様で古くはハチyaと呼んだ例もある。一種の中間法師の亜流で、葬儀、警察事務、托 鉢、遊芸などに従事したものであった。延喜の頃は公民の資格を放棄し、僧となったなったものが三分の二に及んだと三善清行は言っている。彼らは往々竹細工 に従事し、茶筅やサ サ ラを檀家に配るのを習慣とした。これが称の所以である。
●日本の先住民族について
・蝦夷とアイnuは同一民族であった。
・
藤 原清衡(きよひら)は自ら東夷の遠酋と言っていた、京都の公家衆はその子基衡を呼ぶに「匈奴」の称を以てし、その子秀衡を呼ぶに「奥州の夷秋」の語を以て している。 (hourou注:匈奴といえば大陸の遊牧民。高句麗は遊牧民の人種だったそうで、朝鮮経由からも樺太経由からも入ってきたのかもしれない。)
・安藤氏はナガスネヒコの兄安日というもので、ジンム東征以前の大和の領主であった。
(hourou注:ナガスネヒコは地球の謎解き情報によればイエスと共にきたユダヤ人だという)
・日本各地の住民は、石器時代以来の先住土jinの血を保存しているばかりでなく、奥羽から移住した蝦夷の血を多量に交えている。したがって日本人には毛深いものが多い。日本人に相当ひげの濃いものが多いのは、この蝦夷の血を交えている一つの証拠。
・ 新潟県魚沼にケッtou と呼ばれるburakuがある。ケッtoの風貌は身体長大、色白く、目は青みを帯び、毛深く、頬骨が出ている。柳田国生の研究ではケッtoは里人と生活環 境を異にして風俗習慣相違するところが多かったために天狗あるいは鬼の伝説と集合させられたとある。
(hourou注:知り合いのユダヤ人とのハーフの人は現在は黒い目をしているが子供の頃は青かったという。) (hourou注:地球の謎解き情報では天狗、鬼は巨人[イシジン]と知らされている)
・アイnu語では人類をクルという。コル、コロなども同一語で、所謂ウラルアルタイ語族通有の語であったらしい。 ・赤色は先住民族の好んだもので弥生式土器には朱丹を塗ったものが多く、隼人や倭人が赭土を手や顔に塗った。
(hourou注:そういえば天道で青陽期、赤陽期、白陽期などと言っていたが青の時代は恐竜(爬虫類)の時代、赤の時代は弥生時代、白の時代はソラの時代ということでそこは合っていたかな^^;)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上転記終わり
以下hourouまとめ
被差別部落というと単にザ イ×チ系と長いこと思っていたが、地球の謎解きでは
被差別部落の人はヤマタイコクの末裔だとういうことを知らされた。(
過去記事参照)
加 えて、喜田氏の本によれば被差×民は、先住民族(狩猟民族)、天孫民族(要は朝鮮半島からの移民)、キリスト教関係者、更にburakuminの教育保護に かかわって同化したもの、などその構成は複雑で、同じ名前のeta、非nin、河原mono、といっても時代によって扱われ方が違っていたということで ある。
発掘される縄文時代の骨には大きな破損がない=殺された形跡が無い、そうだ。
古代すでに、体の小さな縄文人とは別に今でいうところの白人系、中東系の人々が日本に住んでいたとみられる。先住民族の
ヤマタイコクの人々(農耕民族)が神武天皇によって刺青をつけられて差別されたのが始まりと、
地球の謎解きのチャネリング情報で知らされている。
朝鮮半島からの移民は過去何度か大量に入ってきたことがあるが、その中にはモンゴロイド以外にも朝鮮経由でトルコ系、シベリア系の民族も混じっていたようだ。
人種的には定かでないにせよ、鉄の技術を持った騎馬民族の出雲、隼人、蝦夷は間違いなく遊牧民族であったろう。
喜田氏が言うように、中国やヨーロッパのように先住民族を皆殺しにすることはなく、日本での支配者は妻に先住民族を迎えるなどして融合し、混血が繰り返され、今では自分のルーツを特定するのは難しいだろう。
被差別burakuは、先住民族が元でそこに朝鮮半島などからの移民が加わり、多種多様な職業を持っていた。
その中でも騎馬民族系は馬具の関係上、皮の扱いに慣れており、自然と皮革業者になって、
皮をなめすには川のそばに住み、住むところも特定されてきたのだろう。
中世、藤原氏などの貴族が衰退した時、彼らの中には技術と資力で台頭するものも出た。
長い歴史の中では差別は緩やかなものだったようだが538年
宣化天皇代に
蘇我稲目よによって日本に仏教が入ってきた時と江戸中期以降に厳しさが増した。殺生を忌むという意味だけではなくそれ以前に血の穢れというのは知られていたようだ。動物の屠殺だけでなく、産所の 廃棄物を家畜が食べることからも危険があったようだ。
血のケガレとは何か。
そこから発して女性自身まで、ケガレたものとして歴史上見られてきた理由がわからなかったが
「血」には恐ろしい病気につながる要素があるということで納得した。
特に牛肉には注意が必要。
肉食だった古代の人々は牛は食べなかったようだ。
経験的に危険を知っていたのか?
当初人間には、経口感染しないとされた。しかし、狂牛病に感染した獣肉で作られたキャットフードを食べた猫が死に、解剖したところ海綿状脳症であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、牛同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われた。その後、
イギリスを中心に発生している
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(異型クロイツフェルト・ヤコブ病とも呼ばれる)が、その後の調査で、牛海綿状脳症が食物を通して感染したことが疫学的に高い確率であることが証明された。
炭素菌炭疽菌は土壌中の常在細菌であるが、家畜やヒトに感染して炭疽(症)を発症させる。
そのもっとも多い例は、
皮膚の傷口から侵入して皮膚で発症する皮膚炭疽である。
この疾患は特に
中世ヨーロッパでは、家畜の屠殺・解体・鞣革を行う者に多く見られた。
また炭疽菌の芽胞が呼吸器を介して肺に到達すると、肺炭疽と呼ばれる極めて重篤な疾患を起こす。
肺炭疽は羊毛を扱う者に見られた疾患である。
また稀な例として、
炭疽により死亡した動物の肉を食べたとき、腸管の傷口から侵入して起きる腸炭疽を起こす場合もある。
いずれの場合もヒトからヒトへの伝染は起きない(言い換えれば、危険な感染症だが伝染病ではない)。炭疽は人獣共通感染症であり、日本では感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症新法)において、四類感染症に指定されている。
特に炭疽の発生が多い地帯は世界に2カ所存在しており、この地帯では炭疽菌の生息密度が特に高いと考えられている。
一つは、
スペイン中部からギリシャ、地中海を挟んでトルコ、イラン、パキスタンに至る地帯であり、特にトルコからパキスタンにかけては炭疽ベルトと呼ばれることがある。
もう一つは、
赤道アフリカ地帯である。また、ジンバブエでは1979年に記録的な炭疽の地域的流行が発生して以降、高度に炭疽菌汚染した地域になっていると言われている。
ProMed-mail 国際感染症学会メーリングリスト2005年9月
Osh地域での炭疽流行。
情報源:キルギスタン疾病サーベイランス局。
Osh地域Alayskiy地区のJosholu村で、住民6人が2005年9月5日から7日に入院し
た。これら6人は、発病したウシの屠殺に加わっていた。全員が上肢の皮膚炭
疽と診断された。合計で11人が、問題のウシの屠殺に加わっていた。
人獣共通感染症(Zoonoses)講義